続きをお願いするっす。
まずは前回のまとめから。
生命・世界を閉じた円とネットワークで捉える見方と、開いた線とメッシュワークで捉える見方の2つがあった。
ネットワークは世界を構成で捉える世界観で、メッシュワークははたらきで捉える世界観だ。構造とシステムの違いと言ってもいい。
ここで、メッシュワークの線が開かれていることがとても重要なんだ。
閉じた円は、それだけで完結しているように見えてしまう。
つまり、この円は世界から分離され、対象化されている。
デカルトが、世界を細かく分けて、対象化しようとしたことと同じだね。
一方、開いた線は、はたらきに注目する見方なので、円に比べれば世界から分離されたり、対象化されていない。
たくさんの線が絡み合いながら動いている状態そのものが世界なので、一つの線を独立して取り出してもあまり意味がないからね。
では、メッシュワークの世界観がアニミズムとどう対応するのか。
アニミズム的な世界を生きる人(アニミスト)が、例えば風や雷などの気象現象や、石や水などの無機物について、まるで生きているように語ることがあるよね。
いろんなものに精霊が宿っている、みたいな見方っすね。
そう。
これって、「未開文明の人は、生物と無生物の違いを理解していない」と思われがちじゃないかな。
本当に理解していないかどうかは、分かんないっすけど、それが怪しげなイメージにつながってることはあるかもっす。
僕たちの世界観からすると、無生物も生物のように扱うことに、違和感を感じてしまうよね。
だけど、アニミストにとっては、生物と無生物の違いを知ることよりも、ずっと大切なことがあるとしたらどうだろう。
大切なことっすか?
そう。
インゴルドはアニミズムの捉え方には2つの誤解があるという。
1つ目は、アニミズムが大切にしているのは、世界の構造を知る方法ではなく、世界を生きる方法だということ。
2つ目は、アニミストが、無生物に魂をはめ込んでいると言うよりは、彼らは、その前にあらゆる存在を、生物と無生物の違いとは関係なくこの世界だと捉えていることだ。
ここに、根本的な食い違いがある。
デカルト的な世界観がインストールされている私たちは、世界の構造を知ろうとし、風や石は生物ではない、と判断する。
だけど、アニミストに必要なのは、世界での生き方であり、風や石が生物に分類されるかどうかはそれほど重要ではない。
ここで、先程のメッシュワークの図を見てみよう。
この中の1本の線の一つが自分だとしてみよう。
私が生きるということは、このさまざまな線の絡み合った世界(メッシュ)の中を他の線との関係を結びながら進んでいくことだ。
この時、これらの線を生物に限定する必要があるだろうか?
前回、「多様な生物の活動が絡み合った世界をメッシュワークと呼ぶ」と書いたけれども、実は、風や大地、その他あらゆるはたらきが、生物と無生物の違いに関係なくメッシュワークをなしているんだ。
うーん、それはそうっすね。
生きていく上で関係していくものには、生きものか、そうでないかは関係ないっすね。
そう!
この、メッシュワークのイメージは、アニミズムの、生きていく方法・はたらきに注目して、生物・無生物を問わず、この世界だと捉えている、という世界観にマッチする。
私たちは、デカルト的に世界を細分化し、知ろうとすることばかりにやっきになってきた。
この世界のなかで(*1)生きる方法、さまざまなはたらきの絡み合いについての感覚を忘れている私たちにとって、アニミズム=メッシュワークの世界観には大切な何かがあると思うんだよ。
実際に、アニミズム的な視点を忘れていることで、いろいろな問題が起きているしね。
まだ、うまくイメージできないっすね。
例えば、どんな問題があるんすか?
もう少し説明してほしいっす。
アニミズムを自分の言葉に置き換えたい、と思っていたわけですが、アニミズムとメッシュワークを重ね合わせた時に、何かイメージが掴めたような気がしました。
アニミズムは、生きるための方法、すなわち生きる主体の側から世界を捉える方法であり、はたらきに注目するものである。
そう考えた時に、これまで考えてきたアフォーダンスやオートポイエーシスといった概念と一気につながったのです。
今回、そのつながりを説明するのには、長くなりすぎるので、触れる程度に留めますが、世界をより豊かに捉えられるようになるのでは、という気がしています。