アクチュアリティってどう意味っすか?
これまで言ってきたリアリティに近い概念ですね。
アクチュアリティとは「生きている感覚としての現実感」のことで、今まさに湧き上がってくる感覚のことです。これはごく私的な感覚と言えます。
一方、リアリティは客観的な現実のことで、社会的に積み重ねられてきたもの、過去を意識化したようなもので、こちらは多くの人が共有できる公共的な感覚です。
これまで使っていたリアリティという言葉は、厳密にはアクチュアリティのことを言っていたと思ってもらって大丈夫です。
このアクチュアリティが「私が私である」という感覚、生きていくことに対する安心感の土台になるらしいんだ。(*1)
それじゃあ、ツールの価値としてのアクチュアリティっていうのは?
ツールとアクチュアリティ、サービス化
何度も言ったように、現代のツールを使った行為は、単なる「作業」になってしまっている。
つまり、機械がかなりの部分をやってくれるので、行為と結果が単純に結びついていて、操作さえ覚えれば誰がやってもだいたい同じような結果が得られる。
これは、普通にはいいことだと思うけれども、うまくいくか分からないという不安定さ(*2)がないので、試行錯誤と学びのプロセスがあまりない。もちろん程度問題ではあるけれどもね。
この試行錯誤と学びのプロセスはやりがいと言ってもいいね。
一方、昔のツールは単純なので、自ら目の前のモノと向き合い試行錯誤しながらスキルを身に着けていく必要がある。
これが、やりがい、言い換えると「生きている感覚としての現実感」としてのアクチュアリティと結びつくと思うんだ。
現代のツールは、より公共性を身につけたツール、昔のツールは、より私的な感覚に開かれたツール、と言えるかもしれない。あるいは、現代のツールはスキルがサービスとして機械化されているとも言えそうだね。
うーん、なんか話が難しくなってきたっすけど、ようするに、昔のツールのほうがやりがいとか生きがいを感じやすいってことっすね。
なんとなくは分かるっす。
また、昔のツールの方は、多くの人と協力が必要なので、私的な感覚として感じたやりがいを共有する場も同時に生まれる、ということもポイントかも知れない。
そういう作業の中に含まれていた一種の喜びや楽しさのようなものを、利便性と引き換えに機械の中にサービスとして閉じ込めたのが現代のツールなんじゃないかと思うよ。
サービス化と暇の痛み
利便性を手に入れるために、ツールとスキルの結びつきを手放して、サービスに置き換えていくことが都市化の本質だと思うけれども、それによって、人間はある意味で生きづらくなってしまったと言われているよ。
そうなんすか?
便利になったのなら、生きやすくなったんじゃないんすかね?
それだといいんだけど、人間ってそう単純にはいかない面倒な生き物なんですよ。
人類の歴史のほとんどの間、人間は狩猟を中心とした遊動生活を送っていたんだけど、気候の変動なんかで、農耕と食料貯蔵による定住生活を余儀なくされた。
その結果、遊動生活では思う存分発揮されていた人間の認知や行動の能力は、定住するにいたって発揮する場を失い、人間は”「認知が余っている」動物”となったんだ。
認知が余ってる動物っすか?
うーん、よく分かんないす。
要するに、それまでフルに使っていた認知能力を持て余して、暇になっちゃった、ということだね。
やらないといけない仕事は多かったかもしれないけど、仕事がパターン化されて、その都度、考え試行錯誤する機会が減っちゃったんだ。
哲学者の國分 功一郎は、人は、その「暇・退屈」に痛みを感じるため、そこから逃れることが人類の大きな課題になったというようなことを言っているよ。(*3)
そんなこと言ったら、現代はどうなるんすか?
狩猟から農業に変わって暇になったってことなら、さっきオノンさんが言ったツールとスキルがサービス化された都市では、もっと考えることが減ってるんじゃないすかね?
あれっ、でも現代人は昔の人に比べて忙しく時間に追われている気がするっすけど、本当に暇になったんすか?
確かに現代人は忙しいですよね。
それは、ツールとスキルのサービス化が進行すると、それに合わせた対価が必要になるので、そのためにせっせと稼ぐ必要があるからじゃないかな。
稼ぐためにはより効率化する必要があるので、さらにサービス化を進めないといけない。こうやって、どんどん身の周りをサービスに変換するサイクルが進行し、認知はより余っていく。これはまー、悪循環だと言えるよね。
現代人の忙しさの多くは情報処理に費やされていて、アクチュアリティが生まれるような手応えのある行為は失われていっている気がするよ。
まだ、うまく整理できてないっすけど、結局どうするのがいいってことっすか?
それに対して、國分氏は”人間であること”と”動物になること”の2つを上げているね。
詳しくは國分氏の著書を読んでもらうといいけれども、僕はこれを、物事を深く味わったり、没頭することと捉えている。
その点、昔のツールのほうが作業を味わったり没頭したりする余地があるように思うよ。
そして、これはある意味とても贅沢なことだ。だって、金銭や効率のことを考えると、現代のツールを使ったほうが割がいいのははっきりしているからね。
うーん、もう少し考えてみる必要がありそうっすね。
ところで、この辺の話って建築となんか関係があったんすかね?
頭を使って考えるよりも、実際にやってみる方がいいように思います。
だって、アクチュアリティは考えて分かることではなくて、やってみて自分の中に湧き上がってくるものだからね。
それに、こういう体験を自分がしたからと言って、建築の設計がすぐに変わったりはしないかもしれない。
だけど、建築は人間の生きていく環境の一つをつくることだから、人間がどうしたらより良く生きられるか、というのは永遠のテーマなんだ。
そういう点ではアクチュアリティやツールについて考えることは建築について考えることでもあるんだよ。
それが、やってみないと分からないことなら、当然やってみるしかないよね。
僕は昔から、建築は人の「環境と関わろうとする意思」を受け止められるものであるべきだと考えていたんだ。
すべてお膳立てされた建物よりも、自分が関わることができる建物の方が楽しいし、生きている実感を感じられる建築になるはずだと思っていたからね。
そういう意味で、ツールとアクチャリティの視点は、どこかで建築に結びついてくれると思っているよ。
ツールは効率化を求めて大型化されると、人との関わりを薄めていきます。
これを、スキルがサービスとして機械化されていると捉えたのですが、この視点は割といい線いっているのではという気がします。
というのも、都市化を「ツールとスキルをサービスに置き換えていく過程」として捉えた場合、ツールの進化を都市化の過程に重ねることができるからです。
効率化などの同じ価値観によってサービス化が進行した結果、アクチュアリティのような実感が失われているのではないか、というのが今回の視点。
いやいや、都市部にも実感はいろいろあるでしょう!という意見もあるかもしれません。
往々にして、「何かが失われた」と叫ぶだけでは生産的な議論にはならない、というのも重々承知してます。
それよりも、これいいでしょう!と提示することが大事な気がするのですが、そこはまだまだ力不足。
でも、いいもの見つけた!という感覚はあるので、もうしばらく育ててみたいと思います。
そのためには、やっぱりやってみる以外にないのです。