そういえばオノンさん。
前に言っていた、もともと建築に備わっていた工夫、ってなんのことすか?


あー、それは電気がなかった時代の建物は、必然的に身近なところにあるエネルギーを活用するためにいろいろな工夫をしていた、ということですね。
当たり前といえば当たり前だけど、その当たり前の工夫をいつのまにか設計者も忘れてしまっているんですよ。(*1)
それに、あらゆる建物が地域の環境に合わせた工夫をしていたので、それが建築の地域性、その場所らしさにもなっていた。
その地域性が失われつつあることも大きな損失ですね。
たしかに地域性はなくなってきてるかもっす。
工夫の話にもどすと、例えば、日本ではどういう工夫があったんすかね?


昔の民家や、京都の町家などの工夫がよく知られているね。
兼好法師が「家のつくりようは夏をもって旨とすべし」と言ったように、それらの工夫は夏に対するウエイトが大きかったと思う。
だって、冬の暖かさを得るには、何かを燃やせば良かったけれども、夏の涼しさを得るには電気がなければ簡単にはいかないからね。
そりゃそうっすね。


例えば、伝統的な民家は超高断熱かつ、保水性とそれによる蒸散効果を持つ茅葺き屋根で日射を遮断している。


そして、襖や障子などの開放性の高い開口部で風の通りをよくした上で、庭の植栽や池などで冷やされた涼風を呼び込むつくりになっているんだよ。
さらには、土間などは夜間の放射冷却された冷気を溜め込む蓄熱体になっている。
それぞれの素材やその配置に環境的な意味があるんだ。
夏はめちゃ気持ちよさそうっすね。


ひんやりして気持ち良い空間だね。また、京都の町家も面白い。
町家はいわゆる都市部にあって、外からの涼風はあまり期待できないので民家とは考え方が全く違うんだ。
町家にはいくつもの中庭があるけれども、まず、深い中庭にはあまり日が入らないため、冷気を溜め込む井戸のような役割がある。
上空に開放された庭は夜間の放射冷却によってとても冷えるんだよ。
そして、この中庭は生活で生まれた熱や汚染物質を排出する排気筒でもある。

へーっ。


じつは、中庭が複数あるというのがミソでね。
中庭ごとに環境が異なったり上空の風などの影響もあって、それらの間に気圧差が生じるため、室内には頻繁にちょっとした涼風が流れるようになっているんだよ。
それを打ち水などで調整もできるし、まさしく環境工学的な涼風発生装置とも言える。
ただ、その工夫の意味が現代に伝わっていないので、町家の中庭をいくつか塞いでしまって効果が半減してしまっている、というようなこともよくあるみたいだね。
めちゃめちゃ面白いじゃないっすか。
ちょっと思ったんすけど、冬は逆に寒いってことっすか?
昔の家は断熱性能が低いから改修しましょう、ってよく聞くし、エコじゃなかったということっすかね。


昔の家はエコじゃなかった、とは言えないと僕は思っているよ。
今と昔とでは環境が違うからね。
確かに、冬は寒かっただろうし、暖を採るために薪などをたくさん燃やしていたかもしれない。
でも、昔は今ほど人口密度は高くなかっただろうし、熱源の薪も、自分が住んでいる地域の中の自然な循環の中で手に入れたものなので、それほど環境に対する負荷は大きくなかったと思う。
それよりも、環境が変わって、電気などの外からの力で強引に環境を調整する考え方に合わなくなってしまっただけじゃないだろうか。
なるほどっすね。
うーん、昔の工夫は役に立たなくなったから廃れたんすかね。


どうだろうね。
環境が変わってうまくいかないことは多いかもしれないけれども、これらの知恵は現代でも十分に活かせると僕は思っている。
当然、今の環境に合わせてカスタマイズする必要があるけどね。
そして、この民家のあり方には、建築を豊かにする大きなヒントが隠れていると思っているんだ。
つまり、民家のようなあり方は、「僕らがこの世界に生きている」というリアリティを支える力になると思っていてね。
そういう力をそなえた建築を「21世紀の民家」と呼ぼうと考えているところなんだ。
またまた哲学的な話になりそうっすね。
うーん・・・頑張ってついていきます!

昔の民家などの工夫を調べるとたいへん面白いです。
そういった工夫が受け継がれていない、というのは単純にもったいない、と思うのですが、ここにもやはり近代的な思想の枠組みの影響が感じられます。
そういう工夫をすること自体はとても楽しいことだと思うのですが、工夫にはそれと関わろうとする人の意思が必要で、多少の手間も生じます。
それを面倒だと感じるか、楽しいと感じるかはその人次第とも言えますが、そういう余裕すら感じられない現代にも問題があるかもしれません。
じつは、実際手を動かしてみると、面倒さが退いて、楽しさがどんどん前にでてくる、ということはたくさんあるはずですが、やってみないと分からない、というところにハードルがあるようです。最初に面倒だと思ってしまってやらなければ、決して楽しさを感じることがないですから。(心理学でいうところの「作業興奮」ってやつですね。)
この先は私が環境について考える前からテーマにしていたリアリティという話につながるのですが、それは次回。